養生訓58

「天地(てんち)のよはひは、邵尭夫(しょうぎょうふ)の説に、十二万九千六百年を一元(いちげん)とし、今の世はすでに、其半(そのなかば)に過(すぎ)たりとなん。
前に六万年あり、後に六万年あり。人は万物の霊なり。
天地とならび立て、三才(さんさい)と称すれども、人の命は百年にもみたず。
天地の命長きにくらぶるに、千分の一にも、たらず。

天長(てんなが)く地久(ちひさし)きを思ひ、人の命のみじかきをおもへば、ひとり愴然(そうぜん)として、なんだ下れり。

かかるみじかき命を持ながら、養生の道を行はずして、みじかき天年を弥(いよいよ)みじかくするは、なんぞや。
人の命は至(いた)りて重し。道に、そむきて短くすべからず。」

意訳 

人間の寿命など百年たらずで、地球の歴史からみたら露のようなものでしょう。
このように短い人の命を自ら、短くしてはいけません。
自分の命は、何より重たいはずです。
無理、無駄をして、わざわざ短くするのはやめましょう。

通解

天地の歳月は非常に長く、邵尭夫の説では12万9,600年を一元とし、現代の世界はその半分を過ぎたと言われています。過去には6万年、未来にも6万年があるとされています。人は万物の霊とされ、天地と並び立っていますが、その命は百年にも満たない短さです。天地の命が長い中で、人の命は千分の一にも及びません。

天地が長寿であり、地球が永遠に続くことを思うと、人の命の短さに対して寂しさを感じざるを得ません。

このように短い命を持ちながらも、養生の道を行わずに自らの寿命をさらに短くすることは何故か。人の命は尊く、道に従って生きるべきだと言いたいのでしょう。養生の道を守らずに生きることは、人の命を無駄にしてしまう行為であり、大切な命を軽んじることになります。したがって、人はこの尊い命を大切にし、道に従って生きるべきであるという教えが込められています。

「愴然」とは

「愴然(そうぜん)」は、主に文学や詩の文脈で使用される感情や表現です。この言葉は、日本語の美しい表現や感情を表すために使われることがありますが、具体的な意味や感情のニュアンスは文脈によって異なることがあります。

「愴然」という言葉の一般的な意味や感情の特徴は、以下のように説明できます:

哀愁や切なさ:「愴然」という言葉は、しばしば哀愁や切ない感情を表現するために使用されます。何かに対する深い感慨や物悲しさを表現するのに適しています。

深い感銘:「愴然」という表現は、何かに感銘を受けたり、感動したりしたときにも用いられます。特定の出来事や風景、詩や音楽などが人の心に深く響いたときに、この言葉を使うことがあります。

静けさと感傷:「愴然」という言葉は、しばしば静かで静謐な感情や情景を連想させます。感傷的な瞬間や、静かな美しさに触れたときに、この言葉が選ばれることがあります。

気づき

時々、つまらないことで悩んだりします。そんな時、宇宙の事を考えたりもします。

そのつまらないことが解決された訳では、ありませんが、それが、つまらない事だと分かる時があります。

同じ状況であっても、視点を変えて物事をみれば、新たな解決策も見えてくる場合もあります。

中国のことわざにも、好死不如恶活 Hǎo sǐ bùrú è huó とあります。

やはり、どんな苦境でも、しぶとく生きた方がいいはずですね。

※好死不如恶活 どんな立派な死に方より、みじめで見苦しい生き方であっても生き抜くほうがよい。

 

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