養生訓354(巻第七 用薬)
宋(そう)の沈存中(しんぞんちゅう)が筆談(ひつだん)と云(いう) 書(しょ)に曰(いわく) 、近世(きんせ)は湯を用ずして煮散(しゃさん)を用ゆといへり。然(しか)れば、中夏(ちゅうか) には、此法(このほう)を用るなるべし。煮散(しゃさん)の事、筆談(ひつだん)に其法(そのほう)詳(つまびらか)ならず。煮散(しゃさん)は薬を麁末(そまつ)とし、細布(さいふ)の薬袋(やくぶくろ)のひろきに入(いれ)、熱湯(ねっとう)の沸上(わきあが)る時、薬袋を入(い)れ、しばらく煮て、薬汁(やくじる)出たる時、早く取り上げ用(もちい)るなるべし。麁末(そまつ)の散薬(さんやく)を煎ずる故、煮散(しゃさん)と名づけしにや。薬汁(やくじる)早く出(いでて)、早く取上げ、にゑ(え)ばなを服する故、薬力つよし。煎じ過(すご)せば、薬力よはく成(なり)てしるしなり。此法、利湯(りとう)を煎じて、薬力つよかるべし。補薬(ほやく)には此法(このほう)用いがたし。煮散(しゃさん)の法、他書(たしょ)においてはいまだ見ず。甘草(かんぞう)をも、今の俗医(ぞくい)、中夏の十分一(じゅうぶんのいち)用(もち)ゆるは、あまり小(しょう)にして、他薬(たやく)の助(たすけ)となりがたかるべし。せめて方書(ほうしょ)に用たる分量の五分一(ごぶんのいち)用(もちう)べしと云人あり。此言(このげん)、むべなるかな。人くわへ用ゆべし。日本の人は、中華の人より体気薄弱(たいきはくじゃく)にして、純補(じゅんぽ)をうけがたし。甘草(かんぞう)、棗(あんず)など斟酌(しんしゃく)すべし。李中梓(りちゅうし)が曰(ごとく)、甘草(かんぞう)性(せい)緩(かん)なり。多く用(もち)ゆべからず。一は、甘(あま)きは、よく脹(ちょう)をなすをおそる。一(ひとつ)は、薬餌(やくじ)功(こう)なきをおそる。是(これ)甘草(かんぞう)多ければ、一は気をふさぎて、つかえやすく、一は、薬力よはくなる故なり。
養生訓(要約)
甘草などの補薬なども、その人の体質や病状によって、量を加減した方が良いでしょう。
通解
宋の沈存中は筆談において、「近世では湯を用いずに煮散を用いることが多いが、中夏にはこの方法を用いるべきである。しかし、煮散の具体的な方法については詳しく書かれていない。煮散とは、薬を粗末に砕いたものを細布の薬袋に入れ、熱湯が沸騰する時に薬袋を入れ、しばらく煮て薬汁が出たらすぐに取り上げるべきである。粗末に砕いた散剤を煎じることから、煮散と名付けられたのだろう。薬汁が早く出て、早く取り上げることで効果が強くなる。煮過ぎると薬力が失われる兆候である。この方法では利湯を煎じることで薬力を強くすることができる。補剤にはこの方法は使いづらい。煮散の方法については他の書物ではまだ見かけない。甘草も今の一般的な医師は中夏の場合、あまり少なく使用し、他の薬の補助となりにくい。少なくとも方書では使用量の五分の一を用いるべきだと言う人もいるが、これは真実かどうか分からない。個人に合わせて使うべきである。日本の人々は、中華の人々よりも体力が弱く、純粋な補剤を受け入れるのが難しい。甘草や棗などは慎重に考慮すべきである。李中梓は言っている、甘草は性質が緩やかであり、多く使用すべきではない。一つは、甘いものは脹を引き起こすことを恐れるべきである。もう一つは、薬の効果を阻害することを恐れるべきである。甘草を多く使用すると、一つは気を塞ぎ、消化が悪くなり、もう一つは薬力が失われるのである」と述べています。