養生訓328(巻第七 用薬)
人身(じんしん)、病なき事あたはず。病あれば、医をまねきて治(ち)を求(もと)む。医に上中下(じょうちゅうげ)の三品あり。上医(じょうい)は病を知り、脈を知り、薬を知る。此(これ)三知(さんち)を以(て)病を治して十全(じゅうぜん)の功(こう)あり。まことに世の宝にして、其功(このこう)、良相(りょうしょう)につげる事、古人(こじん)の言(げん)のごとし。下医(げい)は、三知(さんち)の力なし。妄(みだり)に薬を投じて、人をあやまる事(こと)多し。夫(れ)薬は、補瀉寒熱(ほしゃかんねつ)の良毒(りょうどく)の気偏(きへん)なり。その気(き)の偏(へん)を用(もちい)て病をせむる故に、参芪(じんぎ)の上薬をも妄(みだり)に用ゆべからず。其病に応ずれば良薬とす。必ず、 しるしあり。其病に応ざぜれば毒薬とす。たゞ益なきのみならず、また人に害あり。又、中医(ちゅうい)あり。病と脈(みゃく)と薬をしる事、上医に及ばずといへ共(ども)、薬は皆(みな)気の偏にして、妄(みだり)に用ゆべからざる事をしる。故に其病に応ぜざる薬を与(あた)へず。前漢書に班固(はんこ)が曰(いわく)、「病(やまい) 有て治せずば常に中医を得(え) よ」。云意(いうこころ)は、病あれども、もし其病を明らかにわきまへず、その脈を許(つまびらか)に察せず、其(その)薬方を精(くわ)しく定めがたければ、慎んでみだりに薬を施(ほどこ)さず。こゝを以(もって)病あれども治せざるは、中品(ちゅうひん)の医なり。下医(げい)の妄(みだり)に薬を用(もちい)て人をあやまるにまされり。故に病ある時、もし良医なくば、庸医(ようい)の薬を服して身をそこなふべからず。只(ただ)保養をよく慎(つつし)み、薬を用(もち)ひずして、病のをのづから癒(いゆ)るを待(まつ)べし。
養生訓(意訳)
養生の術を使って自然治癒力を高めるように努めましょう。
通解
人は健康であることが当たり前であり、病気になった場合には医者を呼び治療を求めるものです。医者には上手な医者、中程度の医者、下手な医者の三つのランクがあります。上手な医者は病気を理解し、脈を読み、薬を知っています。これらの知識を用いて病気を治療し、完全な成果を上げます。彼らはまさに社会の宝であり、その功績は高く評価されています。下手な医者はこの三つの知識を持ち合わせておらず、薬を無理に使用して人々を害することが多いです。薬は補ったり排除したりするための有効な毒性を持つものです。その毒性を用いて病気を治療するため、参芪などの上級薬を無駄に使用するべきではありません。病状に応じて適切な薬を用いるべきです。必ずしも効果があるわけではなく、また人に害を及ぼすこともあります。
また、中程度の医者も存在します。病気や脈の読み方、薬の知識は上手な医者には及びませんが、薬はすべて特定の効果を持ち、無理に使用するべきではないことを知っています。そのため、病状に応じない薬は与えません。
『前漢書』に班固が述べているように、「病気があっても治せない場合は常に中程度の医者を選ぶべきである」と言います。これは、もし病気が明確に分からず、脈を正確に読み取れず、薬の処方が難しい場合は、慎重に薬を使用しないようにするべきだという意味です。この場合、治療ができないのは中程度の医者であり、下手な医者は無理に薬を使用して人々を害することになります。したがって、病気がある場合には、良い医者がいない場合でも、一般的な治療法を守り、薬を使用せずに自然治癒を待つべきです。