養生訓320(第六巻 択医)
むかし、日本に方書(ほうしょ)の来(きた)りし初(はじめ)は、千金方(せんきんほう)なり。近世(きんせい)、医書(いしょ)板行(はんこう)せし、初(はじめ)は、医書大全(いしょだいぜん)なり。此書(このしょ)は明(みん)の正統十一年(せいとうじゅういちねん)に熊宗立(ゆうそうりゅう)編(あ)む。日本に大永(たいえい)の初(はじめ)来(きた)りて、同八年和泉(いずみ)の国の医(い)、阿佐井野宗瑞(あさいのそうずい)、刊行(かんこう)す。活板(かっぱん)也。正徳(しょうとく)元年()がんねんまで百八十四年也。其後(そのご)、活字(かつじ)の医書(いしょ)、やうやく板行(ばんこう)す。寛永六年(かんえい)巳後(いご)、扁板(へんばん)鏤刻(るこく)の医書(いしょ)漸(ようや)く多(おお)し。
養生訓(意訳)
昔から、日本の医学の発展は、多くの外国の知識が基本となっています。古の知恵を侮ってはいけません。
通解
昔、方書が日本に伝わった当初は、主に『千金方』が広まっていました。近世に入ると、医学の書物が出版され、最初に登場したのは『医書大全』でした。この書籍は、明の正統十一年に熊宗立によって編纂されました。大永の初め、和泉の国の医師である阿佐井野宗瑞が刊行しました。この時は活版印刷が使用されました。その後、正徳元年までの百八十四年間は、さまざまな医学の活字書籍が板行されました。寛永六年以降、扁板鏤刻の医書がだんだん多くなりました。