養生訓302(第六巻 択医)
文学(ぶんがく)ありて、医学(いがく)に、くはしく、医術(いじゅつ)に心(こころ)をふかく用(もち)ひ、多く病になれて、其(その)変(へん)を、しれるは良医(りょうい)也。医(い)となりて、医学(いがく)を、このまず、医道に志(こころざし)なく、又、医書(いしょ)を多(おお)く、よまず、多くよんでも、精思(せいし)の工夫(くふう)なくして、理(り)に通ぜず、或(あるいは)医書(いしょ)をよんでも、旧説(きゅうせつ)に、なづみて、時の変(へん)をしらざるは、賤工(せんこう)也。俗医(ぞくい)、利口(りこう)にして、医学と療治(りょうじ)とは別の事にて、学問は、病を治するに用なしと云て、わが無学をかざり、人情(にんじょう)になれ、世事(せじ)に熟し、権貴(けんき)の家に、へつらひ、ちかづき、虚名(きょめい)を得(え)て、幸(さいわい)にして世に用(もち)ひらるゝ者多し。是を名づけて福医(ふくい)と云、又、時医(じい)と云。是(これ)医道(いどう)には、うとけれど、時の幸ありて、禄位(ろくい)ある人を、一両人(いちりょうにん)療(なお)して、偶中(ぐちゅう)すれば、其(その)故に名を得(え)て、世(よ)に用(もち)らるゝ事あり。才徳(さいとく)なき人の、時にあひ、富貴(ふうき)になるに同じ。およそ医(い)の世に用(もちい)らるゝと、用(もちい)られざるとは、良医(りょうい)のゑ(え)らんで定(さだ)むる所為(しわざ)にはあらず。医道(いどう)をしらざる白徒(しれもの)のする事なれば、幸(さいわい)にして時にあひて、はやり行(おこな)はるるとて、良医(りょうい)とすべからず。其術(そのじゅつ)を信じがたし。
養生訓(意訳)
医者は向上心のない頑固一徹な俗医になってはいけません。また、このような医者を信じてはいけません。
通解
文学があって初めて医学に深く関心を持ち、多くの病にかかり、その変化を知ることができるのが良い医者です。医者になっても、まず医学を学び、医道に志を持たず、また医書を多く読まずに、ただ多く読んでも、熟考や思索の工夫もなく、理論に通じず、あるいは医書を読んでも旧説にならっており、時代の変化を知らないのは賤しい医者です。
俗医は利口でありながら、医学と治療は別のことであり、学問は病を治すのに役立たず、無学を装い、人情に通じ、世の中の事に熟し、権力者の家にへつらい、近づき、虚名を得て、幸せに世に生きる人々が多くいます。これを福医と呼び、また時医と呼びます。これらは医道には疎いものですが、時に幸運があり、地位と名声を得た人々が一時的に治療を行い、偶然成功すれば、そのために名声を得て世に認められることがあります。才徳のない人でも、時に恵まれれば富貴になることと同じです。医者が世に役立つかどうかは、良い医者を選び定めるのではありません。医道を知らない素人が行うことであり、幸運に時に恵まれて一時的に流行るものですが、良い医者とは言えません。そのような術は信じがたいものです。
権貴とは、
権貴(けんき)とは、権力があって地位の高いこと、またはその人やその一族を意味します。
「虚名」とは
虚名(きょめい)とは、名声や評判だけで実質的な力や実績が伴わないこと。
偶中とは
「偶中(ぐうちゅう)」とは、偶然に的中すること、まぐれ当たりを意味します。