養生訓300(第六巻 択医)
医は仁術(じんじゅつ)なり。仁愛(じんあい)の心を本(もと)とし、人を救(すく)ふを以(もって)、志(こころざし)とすべし。わが身の利養(りよう)を専(もっぱら)に志(こころざ)すべからず。天地(てんち)の、うみそだて給へる人を、すくひたすけ、萬民(ばんみん)の生死(せいし)をつかさどる術(じゅつ)なれば、医(い)を民(たみ)の司命(しめい)と云、きはめて大事(だいじ)の職分(しょくぶん)なり。他術(たじゅつ)はつたなしといへども、人の生命には害なし。医術(いじゆつ)の良拙(りょうせつ)は人の命の生死(せいし)にかゝれり。人を助くる術(じゅつ)を以(もって)、人をそこなふべからず。学問にさとき才性(さいせい)ある人をゑ(え)らんで医(い)とすべし。医(い)を学ぶ者、もし生れ付(つき)鈍(どん)にして、その才(さい)なくんば、みづからしりて、早くやめて、医(い)となるべからず。不才(ふさい)なれば、医道に通せずして、天のあはれみ給(たまう)ふ人を、おほくあやまりそこなふ事、つみかふし。天道(てんどう)おそるべし。他の生業(なりわい)多ければ、何ぞ得手(えて)なるわざあるべし。それを、つとめならふべし。医生(いせい)、其術(そのじゅつ)にをろそかなれば、天道(てんどう)にそむき、人をそこなふのみならず、我が身の福(さいわい)なく、人にいやしめらる。其術(そのじゅつ)にくらくして、しらざれば、いつはりをいひ、みづからわが術をてらひ、他医(たい)をそしり、人のあはれみをもとめ、へつらへるは、いやしむべし。医は三世(さんせ)をよしとする事、礼記(らいき)に見えたり。医の子孫(しそん)、相(あい)つゞきて其才(そのさい)を生れ付(つき)たらば、世世家業()をつぎたるがよかるべし。此如(かくのごと)くなるはまれなり。三世(さんせ)とは、父子孫(ふしそん)にかゝはらず、師(し)、弟子(でし)相伝(あいつた)へて三世(さんせ)なれば、其業(そのぎょう)くはし。此説(そのせつ)、然(しか)るべし。もし其才(そのさい)なくば、医の子なりとも、医(い)とすべからず。他の業(ぎょう)を習(なら)はしむべし。不得手(ふえて)なるわざを以(もっ)て、家業(かぎょう)とすべからず。
養生訓(意訳)
家業という言葉があります。自分に合わない家業を継ぐことは、己ばかりでなく周りも不幸にします。人の命に係わる家業は特に配慮が必要です。
通解
医者は仁術であり、仁愛の心を基本とし、人を救うことを志とすべきです。自分自身の利益や生計にばかり専念すべきではありません。医者は、人々を救い、万民の生死を取り扱う職業で生命を司る重要な職務です。他の職業は、直接的に人の生命には害を与えません。
当然、人を助ける技術を持つ者は学問に優れた才能のある人を選んで医者とすべきです。
医学を学ぶ者は、もし生まれつき鈍でその才能がないのなら、自分自身で早く気づいて医者の道を諦めるべきです。
才能がないまま医道に進むことは、大いなる過ちです。天道に畏れるべきです。他の職業が多くあります。何か得意な仕事があるはずです。その仕事に励むべきです。医者はその技術を怠けることで天の道に背き、人を傷つけるだけでなく、自分自身も幸福を得られず、人に嫌われることになります。
医者の道に適さない者は、いつか自ら自分の技術を鑑み、他の医者を批判したり、人に恩恵を求めてお世辞を言うことは避けるべきです。医者は三世にわたって尊ばれるものであり、『礼記』にも記されています。医者の子孫が師と弟子の関係を継ぎ、三世にわたって技術を受け継ぐならば、その家業は続けるべきです。しかし、このようなことは稀であります。三世とは、必ずしも父と子孫に限らず、師と弟子が三世代にわたって技術を伝えることであり、この考え方は正しいと言えます。ただ、医術の才能がない場合は、医者の子であっても医者になるべきではありません。他の職業を学ぶべきです。得意ではない仕事を家業としてはいけません。