養生訓329(巻第七 用薬)
如此(かくのごとく)すれば、薬毒(やくどく)にあたらずして、はやくいゆる病多し。死病(しびょう)は薬を用(もち)ひてもいきず。下医は病と脈と薬をしらざれども、病家の求(もとめ)にまかせて、みだりに薬を用ひて、多く人をそこなふ。人を、たちまちにそこなはざれども、病を助けていゆる事おそし。中医は、上医に及ばずといへども、しらざるを知らずとして、病を慎んで、妄(みだり)に治(ち)せず。こゝを以(もって)、病あれども治せざるは中品(ちゅうひん)の医なりといへるを、古来(こらい)名言(めいげん)とす。病人も亦(また)、此説(このせつ)を信じ、したがって、応ぜざる薬を服(ふく)すべからず。世俗(せぞく)は、病あれば急にいゑ(え)ん事を求(もとめ)て、医の良賤(りょうせん)をゑ(え)らばず、庸医(ようい)の薬をしきりにのんで、かへつて身をそこなふ。是(これ)身を愛すといへども、実は身を害する也。古語(こご)に曰(いわく)、「病の傷は猶(なお)癒(いやす)べし、薬の傷は最も医(くす)し難(がた)し」。然(しか)らば、薬をのむ事、つゝしみておそるべし。孔子も、季康子(きこうし)が薬を贈(おく)れるを、いまだ達(たっ)せずとて、なめ給はざるは、是(これ)疾(やまい)をつゝしみ給へばなり。聖人(せいじん)の至教(しきょう)、則(のり)とすべし。今、其(その)病源(びょうげん)を審(つまびらか)にせず、脈を精(くわ)しく察(さっ)せず、病に当否(とうひ)を知らずして、薬を投ず。薬は、皆(みな)偏毒(へんどく)あればおそるべし。
養生訓(意訳)
やぶ医者が調合した薬は恐ろし。
通解
そうすれば、薬の毒性に触れずに早く病気が治ることが多いです。致命的な病気は薬を使っても治らないこともあります。下手な医者は病気や脈の知識がなくても、病人の要求に応じて薬を乱用し、多くの人々を害することがあります。人々を直ちに害することはないかもしれませんが、病気を助長する可能性があります。中程度の医者は上手な医者には及びませんが、無知を知っているために慎重に病気を扱い、無駄な治療をしないようにします。このような理由から、病気があっても治せないのは中程度の医者ですと言われています。
病人もまた、この考えを信じて、必要のない薬を服用すべきではありません。世間では、病気があると急いで何かを求め、医者の質には無頓着で、安易に庸医の薬を飲み続け、結果的に自分自身を害してしまいます。これは自分の身を守るつもりでも実際には身を傷つけることになります。古い言葉に「病気の傷はまだ癒すことができますが、薬の傷は最も医すのが難しい」とあります。したがって、薬を服用することは慎重に考えて恐れるべきです。孔子も季康子から薬を贈られたが、まだ達していないので試飲しなかったという逸話があります。それは疾病を慎むための慎重さであったのです。聖人の至言を従うべきです。
現在、病気の原因を十分に明らかにせず、脈を正確に読み取らず、病気の本質を知らずに薬を投与しています。薬はすべてある程度の毒性を持っているため、慎重に扱うべきです。